愛着
昨日、呉座先生の件について、自分の過去の発言と今回の件を結び付けられるときついと書いた。それと同様に、氏の講演先や掲載されているメディアなど、所属先以外の団体にも危害が及ばないか心配している。呉座先生にまつわるなにもかもが否定されることを恐れている。彼の周りにいる人にもグラデーションがある。
また呉座先生自身も白黒がつけられる存在ではない。好井裕明氏の『他者を感じる社会学』に「誰もが差別する可能性を持っているし、その可能性が差別しない可能性に変化する」という主張があった。もし呉座先生のすべてが否定されてしまったら。それは氏の「差別しない可能性」まで否定してしまうことになる。氏のために、私含むこれから差別する可能性を持っている人たちのために、差別しないよう考え続ける体制が整わないとと思う。
今回の件に関して、SNSの仕組みについて言及しているツイートがいくつかあった。
個人的に思うのは、凡庸な感想ではあるが、ツイッターは、功名な仕様で「私的つぶやき空間」を感じさせる演出をしており、一定割合の人がそこにはまり込み、それが予期せぬ結果を招く感がある。
— 安藤道人(Michihito Ando) (@dojin_tw) March 22, 2021
もっと「周りの存在」を可視化するほうがいいのだろうが、たぶんそうすると使用する人が減るのだろう 1/
Twitterというアーキテクチャもひとつのゲームみたいなものなので、ヘヴィユーザー化していくと、ゲームシステムに自分を過剰に適応させてしまいがちになる。しかし言うまでもないが、ツイートもまた「公共の場における発言」に他ならないわけで、ゲームプレイに夢中になるのも大概にした方がいい。
— コメカ (@comecaML) March 23, 2021
以前取り上げた以下の記事のことも思い出す。
SNSの中で僕らは僕ら自身である必要はなくなる。ただの「リアクション生成器」として、ビッグデータの中の代替可能な関数の一つになってしまうのです。
https://comemo.nikkei.com/n/n74b685535d4f
こうしたツイッターの構造を把握しておくことが、自分の生活(炎上からもそうだし、日常全般という意味でも)を守ることに繋がると思った。あの頃のツイッターは良い面ばかりではなかった。そしてあの頃のノリはもう終わらせる方がいい。今回の件での気づき。
朝から庭の草を抜く。虫でも出てきたらどうしようかと思いながら、根っこを探してぶちぶちと抜いていく。そのうちだんだん虫がでてきてもいいかという気になってくる。自分のものにしていっているという感覚が手のひらにあった。それは良いと悪いがないまぜになった感覚だった。手をかけると愛着がわく。言葉では知っていて頭では分かっていることを、身体に擦り込ませていく作業。愛着という単語の複雑さを身体で覚える作業。
スーパーで花屋のお母さんに会う。スーパーで顔見知りに会うということに憧れがあったので嬉しい。こんにちはと挨拶を交わすも、昨日買った桜が枯れかけているのでどうするべきかききたかったのにきけなかった。
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