過去にすること

宇多田ヒカル氏がノンバイナリーであると公表したことに関する記事を読み、ふと過去にお世話になった人のことを思い出す。検索すると日記がヒットする。その人は相変わらずパワフルに活動し、前進していた。そしてあの場所の日々は今も現在進行形で続いているのだと思うと不思議な感覚になる。あそこを離れた時点で自分の中であの場所の時間は止まっているけれど、きちんと動いているのだ。過去にするということは、ある時点で時間を止めることで、それはすごく一方的な行為なのだなと思う。少し「今からでも戻れるのでは」という気持ちになるけれど、一秒後にはもう二度と戻ることはないと思い直す。


“6年前は「楽しかった」けど、今回は「しんどかった」。今まで「山を登りきった」と思ってたけど、今回は「ようやく靴を履いた」という感じ。”

その日記中の文章。6年前とは私がいた頃のことだ。親と同じぐらいの年齢の人だけれど、あの頃よりもさらにしんどい思いをされている、つまり6年ものあいだ対象を貪欲に追い続けている様子に、いくつになってもいつからでも学問はできるのだと励まされる心地がした。

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