流れ弾とモダン建築と

自分の関わった好きな人や尊敬する人やもの、所属している(いた)団体に恥ずかしい思いをしてほしくないから、清く振る舞うというのは、古い考え方なのだろうか。でもそう思ってする行動が、自分にとって自然であり、外から見ても倫理的に正しく、調和がとれていると思う。

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流れ弾がリリースされたので朝から聴く。めちゃくちゃファンク!かっこいい。誰が演奏しているのだろうと「流れ弾 演奏」で検索してみるけれど、演奏してみた動画がヒットしただけだった。むかしはCDにクレジットが載っていたと思って「流れ弾 クレジット」で検索してみたけれど、早くもオークションサイトで特典が取引されているのを見てしまっただけだった。結局、誰が演奏しているかは分からなかった。そんなことがあるんだなあ。そもそも人が演奏していないのか。そう言われても信じてしまいそうなぐらいそのあたりのことに疎くなってしまった。そういえば久しくCDを買っていないどころか手にも取っていない。遠いところへきてしまったと思う。

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「モダン建築の京都」の図録を読む。以下、学芸員の前田氏の総括より引用。

“建物は竣工時、その意匠美や秀逸な計画に賞賛が集まるが、その時はまだ一つの箱に過ぎない。その空間での営みこそが後に「建築」へと成長させる。「建築」の歴史的価値を知るための資料は、図面や模型などのいわゆる建築資料だけではない。関係者の記録、家具調度品、古写真、書簡、映像、記事といった資料といった資料の存在も欠かすことができない。”

“建物という空間の保存と共に、人々が紡いできた歴史、いわゆる時間の保存も重要である。”

自分は建築が好きだけれども細かい意匠や技術そのものにはあまり執着がなく(もちろん好きだし興味はある)、いつも興味をひかれるのは、どういった経緯でその土地にその建築物ができたのか、どういった意図で建築家がそうした造りにしたのか、その建築物は誰がどう扱ってきたのかといったことだ。

今回の展示も印象的だったのは建築家のノートだった(特に伊東忠太。洒落の効いたイラストが面白かった。知恵とユーモアのある人だったのだなと思うと同時に、阪急のコンコースにも面白い珍獣(神獣?)の絵があったことを思い出す)。

これで本当に建築好きといえるのだろうかと恥ずかしくなるときもあるのだけれども、上記の引用文はそんな自分を肯定してくれているようで、読んでいてとても嬉しくなった。

歴史も含めるから「建築」という。そして建物の保存とともに、図や写真、書簡などの資料により時間を保存することが必要であり、それを行う建築博物館ができてほしいという前田氏の締めの言葉が良かった。物語の集積としての建築を私は愛しているし、いつか本当に建築博物館ができることを願っている。

しかし博物館の目的(収集保存調査研究普及展示)とか久しぶりに聞いて、一生懸命覚えていた頃のこと思い出して笑ってしまった。今なら暗記しなくても、細部を忘れてしまっていても、フレーズを聞くだけでなんとなくこういうことだなと概念のようなものを捉えられるから、そういうのも学びの効用の一つだなと思う。

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