下心

実家のコタツでごろりと寝転び本を開いていたところ、近所の町議をやっているだかやっていただかのおじいさんが年始の挨拶にやってきた。おじいさんは自分の息子だか孫だかが××駅(多分おじいさんは××駅をすごいところだと思っている)から徒歩5分のところに住んでいるとか、◯◯高校に通っているとか、ほんとは◯◯高校に行けるが△△高校へ行っただとか、自分以外の身内の素晴らしいと思われる点をひとしきり話して帰っていった。

そういえばここは自慢と嫌味でまわってる場所だったと不快になったが次の瞬間には忘れていた。それは私にとってそのおじいさんがどうでもいいからだろう。けれども人と人の関係も密なこの場所で、ご近所で、同じように孫や子どもがいる立場だったら。きっと不快になってしまうと思うし、やり返したくなってしまう。妬み嫉み恨みは同じ土台にいるから生まれる。だからこの場所は自慢と嫌味で満ちているのだろう。

おじいさんに連れてこられていた小学生ぐらいの孫だかひ孫だかは一言もしゃべらず俯いていた。もう分かってしまっているのだろう。そういうことすべてが。

そのおじいさんがまだじいさんぐらいで、私が小学生だった頃、連日公園で野球をしているクラスの男子たちにじいさんが「野球クラブをつくらないか」と持ちかけてきたことがあった。じいさんはワープロか何かで作ったプリントを男子たちに配っていて、そこには野球にかける熱い思い、なぜクラブをつくらなければいけないか、などが長々と書かれていたように思う。
それを男子たちは「アホちゃう」と一蹴していた。取り合う気もないという感じだった。検討ぐらいしたらいいのにとはたからみていた当時の私はじいさんに同情していた。

しかし今にしてみれば男子たちは、それが自分達を思っての行動ではないことにきちんと気づいていたのだと思う。それがじいさんの自慢の種をつくるための行動であり、自分達は駒にさせられるだけなのだとちゃんと気づいていたのだ。

そういう下心ともいえる心の動きは子どもの方が敏感に感じとっている。それは子どもが下心の先にある名誉とか実績とかに価値を見い出していないからだと思う。なのに大人はそれが価値あるものだと押し付ける。私もまだ、その価値観を拭っている最中なのだと身につまされる思いがした。

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