百合とかなんとか

おおきたさんの『夢の国から目覚めても』の感想ツイートを読んで元気がでる。

特に“「既婚者のくせに百合を書いている」と批判めいて言われ”小説を書けなくなったところから“私の描く百合は私と、そして読んで何かしら心に投影してくれた人のもので、それでいいと思”い再び小説を書けるようになったくだりがとても良かった。


私のタイムラインには百合における男性キャラを否定する意見に対して、否定しないでほしいと声をあげるフォロワーさんもいる。

メインストリームへの反抗から様々な文化が生まれてきたように、こうした動きが百合の中に新しい流れを作っていくのだと思う。

一方、「百合に男を出してほしくない」「既婚者のくせに百合を書いている」と言うに至ったプロセスが発言者にはあるわけで、それも同様に無視も否定もできないものだとも思う。そういった個人的なことを受け入れ、救ったり守ったりしてくれる効用が百合には、ひいては物語にはある。

ではずっと平行線のままなのだろうか。平行線の世界で自分はどうしようかと考える。そしておおきたさんの言葉を借りるなら「そっと自分の愛する百合を追求していければいい」のだと思い至る。

実際、おおきたさんの「15」は、大学生から社会人としての経験が豊富な大人まで、様々な女性・男性たちが出てくる。会社勤めし結婚を経たおおきたさんだからこそ書けたものだと思う。「そもそも男とは」というところに踏み込んで書かれた「その花の名でよばないで」は百合そのものに揺さぶりをかけていて、こちらも月見さんだからこそ書けたものだと思う。私はどちらの物語も好きだ。

自分の好きな百合を書いて、自分の好きな百合を読んだら「好きだ」と言う。それが広がり流れになる。その流れはもしかしたら「百合に男を出してほしくない」「既婚者のくせに百合を書いている」と言っていた人といつか交わるかもしれない。

自分の好きを描いて、好きなものを好きだと言って、嫌だと思ったり蔑みたくなるものは否定しないで、なぜそう思うのか自分に問うこと。そして否定されても屈しないこと。それが現在の「反抗」の形なのかもしれない。
ジャンルとしては、新しい流れを蔑まないこと、新しい流れを作った側はそれを特権化しないことが長続きすることにつながるのかなと思う。

『夢の国から目覚めても』の感想はいくつかツイッターで見かけたのだけれどとても真摯に百合を取り上げた作品だということが伝わってくる。アンソロが落ち着いたら読みたい。


今日は芦屋川沿いと夙川沿いを歩いた。芦屋川は夙川と比べて海の気配が濃い。ここに別荘を建てはじめた人や南欧風の建物を建てた人たちの気持ちがよく分かった。芦屋川は浅く子どもたちが水遊びをしていた。沢山の人がシートを広げてのんびりと飲食をしていた。警備員はいない。品がいいからこそ成り立つ光景だと思った。実際、大騒ぎする人はおらず、ゴミも落ちていなかった。コンビニへ寄ると、店内にいたおば様はみんなちゃんとお買い物かごを持っていた。芦屋という感じだった。

夙川は観光客が多く、警備員が沢山いる。シートを広げる場所もあまりない。川は深めなので基本的には入れない。だから写真を撮る人が多い。出張撮影をしている人もときどき見かけた。ちなみに夙川はほぼ満開、芦屋川は五分咲きほどだった。近いのに差があるのが面白い。


夜に桜を見にでかける。子どもははじめての夜のおでかけだった。月を指差したので、やっと月の存在に気づいたかと思ったけれど、その後街灯やマンションの灯りや自動販売機も指さしていたので、光るものはなんでもめずらしいようだった。


昨日から書くのをいったん停止して、身の回りのことを見直している。昨日はお金の管理の仕方と保険を見直して、写真の保存方法も決めた。今日はパソコンとクラウドの中を整理した。そのあと部屋も整理しようと思ったけれど気力が無くなる。来年度ゆっくりやっていこうと思う。こういうのもほんとは細かく日記に書きたい。

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