未来の自分

昨日、芦屋川へ行ったとき、子どもの靴を脱がせて川に入らせた。歩きはじめて数日。子どもは川の中をゆっくり歩く。転ばないように片手を持つ。けれども手を振り払い、自分の行きたい方向へ行こうとする。転ばれては困るので追いかけるけれども、自分の足で歩きたいらしかった。結局、その直後に転ぶ。服はびしゃびしゃで膝もすりむいていた。川辺に座らせてハンカチで拭いて靴を履かせるも、まだ川に入りたいようで川に降りていこうとする。

生まれた直後、ベッドに寝転んで手だけ動かしていた頃のことを思い出す。昼寝しているだけで、息してる?生きてる?と同居人と心配していた頃のこと。たくましくなったとはじめて思った。こうやってあっというまに成長していくのだろう。

(昨日書きそびれたこと)


もう3月も終わりというのが信じられない。今日は買い物へ行き、オルビスで洗顔を買った。アプリで未来の肌診断ができると店員さんに案内され早速アプリを使ってやってみる。インカメで撮った自分の顔が5年後、10年後、20年後へと変化していった。私は年をとることをネガティブに捉えていない。ああいうふうに年齢を重ねられたらと思える先輩もいて、この先のことが楽しみだったりする。けれども20年後の自分の顔を見たとき、グロテスクだと思ってしまった。たるんだ頬、染みだらけの頬、濃くなったクマ。本能というか、理性ではどうしようもない部分がそうさせているという感じがした。先月読んだブレイディみかこさんのエッセイを思い出す。


アンチエイジング市場が内需縮小の最後のとりで。それを買うために高齢者が働けば年金支出が抑えられる。「おばさん」と言われると傷つくという問題には、ジェンダーやエイジズムの枠を超えた、一国の経済という下部構造がどっしりと不気味に関与しているのである。(略)ルッキズムとは早くてわかりやすいシンパシーベースだから全体主義と相性がよく、政治利用されやすい。他方で時間がかかり、知的努力を要するエンパシーは個人的な想像力だから束ねることは困難だ。
ブレイディみかこ「アナーキック・エンパシー#9」『文學界』1月号


20年後の自分の顔という視覚で捉えることができるものの分かりやすさ・強さが、「ああいうふうに年を重ねたい」という個人の想像力を軽々と飛び越えるのを身体で感じた。そうした視覚の強さは本能に訴えるところからきており、身体が老いる=グロテスクなことだと本能に近い部分にまで自分に刷り込まれていることも。この勢いのある流れを一度自分の身体にためることが必要だと思った。

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