体験と小説の相関

週に2日のペースでわりと人の少ない時間帯にマックへ行って毎度同じメニューを頼んでいるのだけれど、店員さんは私がコーヒーにシロップもミルクもつけないことを覚えていない。そのことに安心する。顔を覚えて話しかけてもらえることに安堵することもあれば、こうやって大勢のうちの名もない一人でいられることに安堵することもある。こうやって、気持ちにあわせて選べる選択肢がたくさんある。大人になった。ただそれらを適切に選ぶために自分の気持ちをはかることはいまだに難しい。


事故死の説明書を読む。突然、不慮により亡くなってしまったときの対応などが、遺族を悼む文体で、けれども説明書特有の淡泊さを隠しきれない様子で書かれている。それを読んでいると、自分や子どものすぐ隣にも死があること思い知って、死にたくないなあと思った。


憤りや悲しみなどマイナスのことも、小説の糧になるという考え方がある。それに反対するわけではないし、むしろそう考えないとやっていけないときがあるのはものすごく分かる。けれどもその考え方がすっと今の自分の中に落ちてこないのは、じゃあ、例えば子どもが突然、他の何かや誰かの落ち度で死んでしまったとして、その悲しみや怒りを私は小説にしたりするのだろうかということを考えてしまうからだと思う。


私は小説で言いたいことを言っている。ならきっと私は子どもの死について何かを言いたくなるだろうし(逆に何も言いたくなくなるかもしれないけれど)、直接的でもそうでないにしても、それを書いたりしてしまうと思う。そういう営みから死だけを切り離すのは感覚的には難しい。


そんなとき、自分が書いたものについて「これは悲しみや憤りを糧にして書かれたものだ」と言われたら、きっと私は悲しくなると思う。たしかにそれはそう見えるかもしれないけれど、私にとってはそんなことじゃないんだと思うだろう。


死は、というか体験は、体験のままで意味のあるものだと思っていることが、私を私の生活に落ち着かせている。

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