9月7日付朝日新聞朝刊を読んで思ったこと
昨日の朝日新聞朝刊を読む。桜庭先生の「少女を埋める」に対する鴻巣氏の文芸時評をめぐる一連の流れについて両氏の意見と朝日新聞担当者のコメントが掲載されていた。
(ちなみに私はこの小説を読んでおらず、文芸時評も該当箇所しか読んでいません。両氏のネット上の意見のみ読んだ状態で以下の感想を書きます。)
紙面に掲載された両者の意見は平行線で(対談ではないから当たり前だけど)、それを受けた担当者は“今後、文学についての前向きな議論が広がることを期待しています”と締めていた。
私がこの紙面を読んで思い出したのは、児童同士がトラブルになったとき緊急に開かれる小学校の学級会だった。
例えばAさんがBさんにいじめられたと教員に訴えたとする。すると教員は学級会を開きみんなに「この問題をみんなで考えましょう」と言う。そしてその学級会では「いじめはいけない」とかいうまあ真っ当な意見が出て、最終的には「みんな家に帰ってからも各々考えましょう」と締め括られる。
道徳の時間の議論用に作られた教材だったら、各々考えましょうでいいのかもしれない。けれどもこれは生身の人間の訴えだ。訴えるに至るまでのAさんの実感や過程がある。そして訴えられた側には応答する必要があると私は思う。2人のあいだにどんな事実があったのか明らかにして、これからどういう対応をとるのか答える必要があると。
短絡的かもしれないけれど、この件も似たようなことだと思った。桜庭先生には訂正してほしいという訴えがある。訂正したのなら、訂正したのはどういう考えに基づきどういう経緯でそうなったのかを過程を含めて述べることが朝日新聞側には必要だと思う(少なくとも桜庭先生に対しては)。
けれども朝日新聞側は桜庭先生の意見を紙面に掲載し応答しているように見せて、その実訴えそのものには応答していない。
そして担当者は“今後、文学についての前向きな議論が広がることを期待しています”と締めている。「文学の最前線ではこんな議論がありますよ。みなさんも考えたらどうですか」とでもいう風に。
それは「おうちに帰って考えましょう」だと思った。たった一人の実感や過程を教材にするみたいに、桜庭さんの切実な訴えを旬なトピックにしているように私には見えた。理解のある風のポーズをとり、結局フェアでも何でもない紙面を展開している。こんな不誠実なことが新聞というメディアで行われていて、そのことが悲しかった。
上の一連の流れと別にしても、私は桜庭先生の“主観的な読みをあらすじとして掲載するのは、“自由”な文芸時評が“読者の解釈の自由”を奪う”という考えを支持している。
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