価値と意味

久しぶりに友人と会う。ショッピングモールで買い物をした。口にはしなかったけれど、この状況なので飲食は避けたのかもしれない。今住んでいるところはその友人の地元なので、彼女との思い出がそこかしこにある。最後、改札まで見送ってくれて、見えなくなるまで手を振り続けるという行為を久しぶりにした。


そういえば昔、その友人に誘われて友人の彼氏の所属する草野球チームの試合観戦と打ち上げに呼ばれたことがある。

誘われたのでなんとなく行くことにしたが、なぜ全然知らない草野球のチームを応援して、打ち上げまで参加することになっているのだろう、面識もない人物たちに打ち上げまで参加されて草野球チームの面々は楽しいのだろうかと当時は疑問だった。しかし若い女子に応援してもらい打ち上げで話を聞いてもらうという、草野球チームの男性たちが設定したこの一連の流れは、今の私には十分“そういうこと”だと理解できる。いわばご飯代のみで調達できるコンパニオンというわけだ。


けれども当日、私たちは寝坊したかゆっくりご飯を食べすぎたかで肝心の試合観戦に間に合わなかった。一緒に参加した友人二人は遅刻すると言いながらも、ご飯を切り上げてまで出発しようとはしなかったし、私はそのとき時間に余裕があった気がしているのだが、上記のように知らぬ人の野球を応援するという行為がよく理解できなかったために、時間に間に合わせねばという気がそもそもなかった。けれども一応、私たちは試合が行われている球場まですごく走った。大嫌いな持久走を思い出すほどの息苦しさで、浜風に叩かれながら海へ向かって走った。球場に着いた頃には選手たちはトンボで土をならしていて、すっかり試合は終わったところだった。


打ち上げの記憶はまったくない。酒を飲んで吹っ飛んだとかでなく、単にあまり楽しくなかったのだと思う。覚えているのはこの前日に友人宅に三人で泊まり、小さい風呂になぜか三人同時に入ったこと。貸してもらったパジャマの柄が意味の分からない犬でダサいダサいと言って鏡越しに写真を撮り大笑いしたこと。次の日、三点買ったら千円だからとセンター街でお揃いのマフラーを買ったこと。南京町で餃子を食べたらにんにく臭が大変になったこと。靴を試着した友人が靴屋さんに借りた靴下をそのまま履いて帰ってしまったこと。関東に帰省する友人を高速バスターミナルまで見送ったこと。これらのことはそれから何度も私たちのあいだで話題にのぼった。でも草野球を見れなかったことや打ち上げに関しては話したことがない。二人はもう忘れているのだろうか。それとも覚えているけれども口にしなかっただけだろうか。私は今日までこのことを忘れていた。


試合観戦してほしいという要求に応えず、しかし爆走し、打ち上げだけ参加し、ただご飯を食べて帰る。あらゆる思念を無自覚のままに無視し、挫いた。当時の私たちは若さという価値に対してほとんど無自覚だったと思う。無自覚だからこそ、食い物にされるかされないか、そのすれすれを走っていた。その様は肺の冷たさ、息苦しさ、ヒートテックの下の熱、滲む汗、焦りと高揚のすべてを抱えて海沿いの球場まで走っていたあのときの私たちとシンクロする。もちろん踏み外すことだってあった。


この文章を打ちながら私は笑い、泣いている。しかし若さの価値を知らなかった頃の私たちの純真さは泣いてももう手に入らない。私は手に入れるために泣いているのではない。すべての涙に意味があるとは思わない。無意味な涙があってもいい。全然いい出来事ではない、大切でもない思い出で泣くこともある。


“そういう”価値観にあてはめれば、歳をとり、妻に、母になった私たちは無価値だということになる。なんて寂しい価値観なのだろう。改札を抜けて、見えなくなるまで何度も振り返って手を振る。この心の温かさが、記憶の重なりが無価値なわけがないのに。

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