間違い探し

新しい職場まで自転車で通えるかどうか試すために久しぶりに自転車に乗る。

駅前の駐輪場で同居人にタイヤの空気の入れ方をレクチャーしてもらった後、出発。歩道を走る自転車に対して、常々なぜ車道を走らないのかと思っていたから車道を走るも、これがなかなか怖い。学生時代はイヤフォンをつけて自転車を漕いでいたけれども、今はもうとてもそんなことはできない。多分もう注意をはらう能力は衰えている。

中学生の時の同級生のあだ名と同じ名前の公園があって、十年以上ぶりにその子(今はもうきっと立派な成人男性だが)のことを思い出す。まったくと言っていいほど話したこともなかった。けれども私はなんとなくその子のことが好きではなかった。話したこともないのになぜ私は好きでないと思ったのだろうか。歩道の広い通りに出たので、歩道を走らせてもらうことにした。

しばらく走り市の境をこえると、街の雰囲気が変わった。道沿いにはフランス料理、イタリア料理、パティスリー。どれも舌の肥えたこの地の人々が育ててきたのであろう。冬でも明るい、海の気配を抱き込んだ光がよく似合っていた。まったく自分の手が届かない店々なのにもかかわらず、東京資本の匂いがしないのが心地よかった。ローソンの看板は茶色かった。

しばらく走ると目の前に坂が見えた。私はずっとこの道を走っていたかったが、坂を上る気が起きず、角を曲がった。大きな国道沿いに出た。昔だったら何も考えることなく坂を上っていたと思うし、そうしたとしてそんなに大変と思わなかったと思う。人生じゃんと思う。
しばらくいくと、下り坂になった。軽い身体で風を切るのは心地よかったが、帰りのことを思い心の中で泣く。

目的地に近づいてきたからなんとなくこちらだろうということでハンドルを切る。学生時代、京都にのぼりたての頃、まだガラケーでGoogleマップはパソコンで使うものという認識だったあの時分に、なんとなくこっちだろう、なんとなくこのバスだろうといつも旅気分で街を歩いていたことを思い出す。なにに駆り立てられることもなかったあの頃。

国道を越えると土地の雰囲気は変わった。海沿いのお好み焼き屋さん、正午前に漂う香ばしい匂い、氷屋さんの前で談義するおじいさんたち。下町といえば下町なのだけれども、そういう単語で括りたくないような味わいがあった。目的地につき、時間を確認したのち引き返す。

淡々と目の前にあるものを捉えて、頭の中で描写していく。それが自転車の醍醐味だと思った。電車通勤ではできない。しようと思えばできるのだろうけれども、本を読んだりスマホを触っていたりしないとなんとなくもったいない気がして、車窓に目をやり続けることができない。でも私は車窓から景色を眺めることが好きだから、後で後悔したりもする。目の前の景色だけに集中せざるを得ない自転車というのは、悩んだり後悔したりする隙がない。景色や、景色を通した自分の中に新しい発見がある。しかしそういう利点とこれを毎日続けるのかというのはまた別問題だ。何より電車が遅延しても仕事をサボれないのがつらい。もう少し考えることにする。

午後からは空港へ行く。最近子どもが毎日行き帰りに空を見上げては「飛行機」と言って教えてくれるのだ。きっと飛行機が好きなのだろうと思い私たちは子どもを展望デッキへ連れて行ったわけだが、最初大きなジェット機を見て「わあ!」と言ったきり、私がタリーズでティーオレをテイクアウトしてきた頃には飽きてしまっていて、その後はひたすらデッキの階段やスロープを登り降りしていた。アスレチックか何かに見えていたのだと思う。

多分子どもは、飛行機の機体が好きなのでなく、間違い探しをするかのように、まるで空の間違いのような飛行機を見つけることが楽しかったのだ。

夜、母と祖母とスカイプをする。「飛行機と阪急どっちが好き?」という祖母の問いに対し子どもは「はんきゅう」と小さな声で答えた。

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