自分の言葉

迷いに迷って、昼に以下のツイートをする。
迷ったのは、性的マイノリティーそのものを忌避しているように捉えられかねず、たとえばアウティングされるかもしれないという状況にさらされているような人たちを傷つけてしまうかもしれないと思ったから。「性的マイノリティーの人を傷つけてしまったらごめんなさい」という旨をツイートしたくなったけれどもやめた。言葉が足らず誰かを傷つけてしまったのなら、その責任は自分でとりたい。加害性を引き受けることが「自分の言葉」を発することだと思った。それにそんなツイートで責任を免れるとも思わない。

先のツイートは「N/A」を読んだ感想。芥川賞の候補作が発表されたとき運営側が「今年の候補の作者は全員女性」と述べたことで候補作「N/A」の作者である年森瑛さんが女性であることが周知の事実になる。その日私は「年森さんの性別がアウティングされている!許せない!」という旨のツイートをたくさん見かけた。たしかにそらあかんことやなと、私も思っていた。

けれども「N/A」を読んで見え方が変わった。まどかがうみちゃん(同性)と付き合った理由が「とりあえず試してみたかった」だけだったように、年森さんが性別を明かしていなかったのは「ただ公表したくなかった」だけかもしれない。しかしそこに「性的マイノリティーであることを本人の了解を得ずに言い広める」意の「アウティング」という言葉を付与し「許せない」と糾弾するのは、うみちゃんがまどかを「パートナーさん」と称して勝手に写真をSNSにアップし「めげそうな日もいっぱいあるけど好きな人と一生一緒にいられる未来をつくるためにみんなで声上げてこうね」とつぶやいていたことと、どう違うのか。個人の事情を蔑ろにし、勝手に属性を付与し、自身の願望や主張を込めて、あたかもそれが「正しいこと」のように振る舞う。その空虚さ。それを目の前にしたときの息苦しさ。

アウティングは許されない。それは正しい。それにノーとは言えないし、そもそも言いたくない。けれども「ノーとは言いたくない」ことを人質にして個人の抱える事情を蔑ろにするような、隅から隅まで正しさで照らしだす太陽のような明るい地獄から私は抜け出したかった。誤解されるかもしれないけれども、それを主張したかった。私は個人を尊重することと、マイノリティーへの差別に反対することは矛盾しないし、むしろ似たような道だと思っている。

あの言葉で良かったのだろうかと、今も考えている。誰かを傷つけてはいないだろうかと。一方、自分の言葉で語れた安心もある。自分の言葉で語ることは想像以上に疲れることだった。明日はネットから離れるかもしれない。分からんけど。こういうことを「主張!」って感じでなくさらりと言えるようになりたい。

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