清水晶子さんの『フェミニズムってなんですか?』を読んでいる。まえがきで示されている、すべての女性に当てはまる完璧な答えは分からないけれども一緒に考えていこう、という姿勢に安心する。

また清水さんと写真家の長嶋有里枝さんの対談で、両者が

清水:「こうでなくてはならない」と押し付けられても連帯はできない。(略)同調圧力がかかるところではいい連帯は生まれないように思います。

長島:「女性」だというだけで連帯できるわけではないとか、男性を敵視したくないという思いを、どう表現したらフェミニズム的な前進に繋げられるのか。
ということを、このタイトル、この内容の著書の中で仰っていることにも安心する。先日、三宅香帆さんが自身の動画で「今回の芥川賞の候補作はどれも、女同士という理由だけでそんなに連帯できるだろうかという疑問を投げかける、ポストシスターフッド的作品なように思う」ということを仰っていて、重なる部分があると思った。

こうした個に光が当てられる時代の向きは、私には心地がよいものだけれども(多くの人がそう思っているからこうした時代の向きになっているとも思うけど)個の背景には構造があり、男性と女性には明らかな力の偏りがあるわけで、その中で自分はどう振る舞うか、いまだに迷うことが多くある。自分に見えてないものがあるのだろうという感覚もずっとある。

そういえば年森瑛さんのインタビューを読んだ。「N/A」の魅力はあれだけのことを、意地悪でなく、皮肉でもなく、啓蒙でもなく、ただそこにあるように描き切っていたところだと思っていたので、そこに触れられていてよかった。それにそこに、自分がどう振舞うかのヒントもあるように思う。意地悪でなく、皮肉でもなく、啓蒙でもない。そういうものが書きたいとも思う。

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