掬いあげたい

子どもが熱を出し金曜日からほとんど家を出ずにいる。今日も仕事を休んだ。
そうなるとやることすべてのハードルがあがる。ご飯を作るのはもちろん、母や職場や保育園にメールやラインをするのも一仕事のように感じる。

ご飯をつくれば心も落ち着くとか、行動すれば気持ちもついてくるとか。そんな言葉や描写が頭に浮かぶけれども、どうしても身体が動かない。そういうときもある。私は誰かの「そういうとき」をなかったことにしたときはなかっただろうかと考える。「そういうとき」を掬いあげるようなことをしたい。
いくつか本を読むけれども、焦りが心の底の方に貼り付き、追う目は紙面を滑る。

人や、書物との関わりの中から言葉が生まれてくるという。なにも言葉が生まれないということは、私は人や書物を見つめられていないということなのだろうと思う。なんとなくSNSを開いてしまうのは、そこに共感できることや知りたかったことしかないからなのだと思う。

行動しながら、我慢していると思うことがある。我慢というよりは、自分が変に自分を縛っているような。例えば、クッキーの詰め合わせが残り二つで、欲しい方を手にするも「もしかしたら後の一人がこっちを欲しがるかもしれない」と思い、後の一人がいるかどうかも分からないのに欲しくない方を選ぶ、みたいな。

耳鳴りがする。

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