ねそべるてつがく

永井さんのコラムが更新されていた。とても良かった。

永井さんの文章を読んでいると、そうそうそんなことを思ってたんだよー!というより、「そんなことを思っていた自分」を、そのままでいいんだよと励ましてもらっているような心地になる。

今回のテーマは絶句(沈黙)。人をしゃべりたがりにさせるシステムを、一人ひとつ(というかいくつも)持っている今の世で黙っていることについて。

たとえばツイッターでは日々「意味分かんないよ」と思うことが「意味分かんないよ」を具体的に言語化したコメント付きで流れて来る。
いやほんと意味分かんないわ、私も意味分かんないって言ったほうがいいかな、そう思ったときに頭に浮かぶのは「声を上げなきゃ届かない」というフレーズ。すると「言ったほうがいいかな」は「言わなきゃ」へとスライドしていく。

けれども私には語るべき言葉がない。「意味分かんないよ」しかない。言葉が見つかっているわけでないのに、「声を上げる」ために張りぼての声を上げるって不誠実ではないだろうか。そう思い、いつも、今も踏み留まり考えている。けれども、そんな悠長なこと言っているから変わっていかないのだと、責められているような気がうっすらとしていた。だって考えていることは、誰にも分からない。言葉が見つからないって言ってその実なにも考えてないんだろうと言われても仕方がない。

以下のフレーズはそんな自分のそばに、ずっといてくれるだろうと思った。

沈黙は意識的な行為だ。沈黙は評判がわるい。わたしたちはそもそも沈黙に不安をかきたてられるし、それを埋めるように話し続けてしまう。それに、なにかおかしなことが起こっているときに沈黙するというのは、不正義の是認である。だから、何かを言わないと、と思ってしまう。
だがそれは本当にそうなのだろうか。黙認してしまうことなしに、立ち止まることができたら。そのままに、あなたのそばにいることができたら。そんなことは可能なのか。

容易さにとびつくことへの抵抗としての沈黙。それは可能なのか。踏みとどまり、手品を見せるように論じてみせてしまわないで、言葉を探すことはわたしたちにできるのだろうか。

声を上げることと、簡単に言葉にしないことは相反しない。それを分かってくれている人がいる。こうして言葉にしている人がいる。そのことに安堵する。

たまに、というか結構、私は言いたいことなんて特にないのかもしれないと思うことがある。そんな自分でいいのかもしれないと思った。

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