東直子『一緒に生きる』

東直子さんの『一緒に生きる』読み終える。とても普遍的な育児エッセイだった。


今子どもが通っている保育園は少人数制で、子育てを終えた世代の保育士さんが毎日みてくれている。私の母と同じか少し下の世代だろうか。保育士というより人生の先達のような先生方はみなおおらかで余裕がある。この本の印象はその先生方と接しているときの感じとよく似ている。知恵袋やハウツーなど目の前のことに対するあれこれでなく、過去の歌人や詩人の一節を引用しながら俯瞰的に育児をみて、深く人生の根本に潜ってゆくような感じ。


上手く感想を言葉にできないなあと思っていたら巻末の対談で山﨑ナオコーラさんがほとんど語ってくれていた。


育児をやってるだけでも文学なんだっていう自信を持てた気がします。育児して考え事するだけでも十分なのかもしれないっていう気持ちになりました。P226


育児をしていると文学をやっている暇がないと思っていたというナオコーラさんの発言。この本を読んで最も思ったことがこれだった。私も文学は育児と切り離されたところにあると思っていた。だから子どもがなかなか寝ないとき、早く続きを書かなくては、本を読まなくては、文学しなくてはと焦っていた。そして子どもが寝てからも、この一人の時間を一瞬一秒も無駄にできないと焦っていた。まあ要するに常に焦っていた。けれども子どもと一緒に夢中になって遊んで、子どもというひとりの人間と真剣に関わりあえば、それはもう文学なのだとこのエッセイを読んで思った。焦りはゼロになったわけではないけれど、この時間そのものを楽しみたい、楽しんで考えたことを書いて残していきたいと思う。


子育てを楽しんでいいんだ。P230


これも読んで強く思ったことの一つ。育児って大変で、だから大変って言わないといけないと思っていた。そうしないと大変な状況は変わらないから。でも楽しいときだってもちろんあって、それも表に出していいのだと読んでいて思った。それとこれとは矛盾しない。子育てが楽しいと言うことを咎められるならそれはまた別の形の抑圧だろう。大変なら大変で、楽しいなら楽しいで素直な言葉を口にしていい。もちろん声を上げて大変さを改善していくことも必要だと思うけれども、その必要に迫られて楽しいことを楽しいと言えないのはもったいない。


黒田三郎の『小さなユリと』も引用されていましたけれど、結構ダメな父親な感じですよね。ポケットにウイスキーとか持って散歩行ったりして。今の時代、これをツイートしたら炎上しますよね。でも、現代の親だって、こういうダメな親もいるわけはずで、詩や文章で本として出版するのなら許される、そういう本の世界があるのがいいな、って私は思うんです。P231


これは育児とは直接的には関係ないのだけど、すごく分かるなって思った。私もそういった寛容さ、懐の深さを本の中に求めている。

以下は引用されていた詩歌の中で特に印象的だったもの。


子育ては樹陰の匂ひ木の下に子ともういちど生きなほすこと/黒羽泉


東さんは「樹陰」をホームキーピングの暗喩だと捉える。そう言われてみれば確かにそうだ。家事育児は社会的には陰の活動だろう。しかしそこには独特の静けさがあり、子どもがいるだけでまるく柔くなる時間があり、子どもともう一度人生を繰り返すことができるという希望も生まれてくる。家事育児は正式なキャリアとして社会的に認められない、それは理不尽なことで、認められるようになってほしいと文中の東さんとともに願うと同時に、そんな理不尽な場所にだって光はあるとも思う。なんて子育てそのものの歌なのだろう。そしてこの本を表す歌でもあるように思った。

押し付けではない、子育てにはこういう道もあるよと教えてくれる人生の先達のような本だった。

0コメント

  • 1000 / 1000