シンプルに

“仕事をしないという選択はいつでもできたのにそうしなかった理由は色々あれど、「普通ではなくなる」ことへの恐れというか、仕事をしている意地のようなものがあったのは確かで、それが考える行為を阻んでいたと今になって思う。「普通」ってなんだとか思っている一方でそういう気持ちもあったのだ。生き方に王道はないのに。”

子どもが体調を崩し、自分にとって良い生活のかたちとはなんだろうと根っこから考えたとき、まず浮かんだのは仕事のことと二人目の子どものことだった。以前から欲しいなとうっすら考えてはいたけれども、子どもは一人でいいという暗黙の了解というか、そういう雰囲気が漂っていたし、わたしも出産、乳児の育児をもう一度やる自信がなかった。

さらに目の前に横たわったのは、上記のように、仕事も家庭も両立!(もしくは仕事に生きる!)それが幸せ!みたいな考えが押し付けられることに疑問を抱きつつも知らず知らずのうち内面化していたように、二人の子どもがいることが「普通」だと知らず知らずのうちに思っているから欲しいだけではないだろうか、という自身への疑いだった。

そうしてしばらくウニャウニャ考えていたけれども、結局、この家で四人で暮らしている情景をみてみたい、その気持ちはたしかなことで、そしてそうした気持ち以外に、なにか理論武装して子どもが欲しい理由をこねくり回す必要はない、と思い至り、家族に相談した。

(と書いたところでジロウさんが下記のツイートをされていた。
私はもつ立場なので一緒にしてくれるなと思われるかもしれないけれど“「知らんがな」「気分じゃない」でいけるところまでいきたい”という点にとても共感した。また“自分の立場を宣言した途端、反対陣営を攻撃するよう仕向けられるテーマ”についても考えていたところだった。子どもをもつ/もたない/何人もつかという選択に信念や主義を持たせようとさせる環境、その息苦しさ。こうして選択を書くことがその選択以外の否定に直結してしまう難しさ、悲しさ。)

信念を貫きたいからではない。主義を主張したいからではない。ただ二人目の子どもに会いたい。そのシンプルさを保ってどこまでいけるだろう。

そんなことを思いながら、産科へ行き、二度目のつわりとジリジリたたかいつつ、退職の申し出をしたり、子どもの退所と入園の手続きをしたりしている。このまま続いていくと思っていた生活からどんどん離れていく。子どもと一緒に過ごす毎日はしあわせだし、職場はいい人ばかりで仕事できない人間の私でもできる仕事だし、ここですっぱり終わってしまってもいいと思える生活だった。綾ちゃん風にいうと私はなんて強欲ながじゃというところだ(そして私に竹雄はいない)。退職願を書こうとしている今も迷いがある。後悔するかもしれないと思っている。


生活を組み換えている。こういうとき、自分にとって大切なものが分かってきたと思っていた。けれどもそれでは「大切なものが分かっている」と思っていた過去の自分を否定してしまうようだから、大切なものが変わってきたのだと思うことにした。

子どもとの生活を武器にせず、これからもそのままの瞳で見つめて書きつけていく。私のために。それらしく書かない。内にも外にも誠実に取捨選択をしていく。

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