よつばと

実家から戻ると、反動のように買い物へ行ってしまう。

手帳とペンを買う。手帳のカバーはピンクとブラウンで迷ったけれども、直感どおりブラウンを選んだ。その後は本屋でよつばと、GENIC、&Premium、を買う。カルディでパクチーラーメンも。ときどき無性に食べたくなるのだ。天一と同じだ。天一もしばらく食べていない。食べたいなあ。


駅にはたくさんの人がいて、駅すらない地元とはまるで違う。ほんとうに同じ日本なのかと思った時もあったけれど、今はあまり思わない。それはその土地の遍歴というのがなんとなく分かるようになったからだと思う。そんな歴史があれば今、目の前に映る景色に至るのは当然というか、普通のことのように思うようになった。


帰ってからはパクチーラーメンを食べて、散歩へ行く。電車を何度も見送り、手を振った。子どもは指をさして手を振っていた。


よつばとはとても良かった。ふふっと声を出して笑ったり、最後は思わず涙を流しそうになったり。

私は小説を書くとき、山があって、そこで感情が高まって……などと考えるわけだけれども。実際に涙が流れるときって、そんなドラマの末にあるものではないんだよなあ。なんでもない日々の積み重ねがあって、ささいなことがきっかけで、自分の中にしかない記憶や感情や色や匂いが呼び起されて涙が流れる。例えば最後のシーンは私の小説の書き方だと、校門の前、白に黒字で「入学式」と書かれた立て看板の前にランドセルを背負ったよつばが立っていて、それにファインダーを向けたとき、とーちゃんは涙を流すだろう。けれども物語中では、全国どこにでもある、ありふれた大型ショッピングモールでよつばがランドセルを試着したときにとーちゃんは泣くのだ。

私にとっては後者の方がリアルだ。自分の子どもがランドセルを背負ったのなんて見たことないのに、心の手触りが分かって「ああ涙が流れるときってこんな風だったな」と思う。

石ころ拾いの話も良かった。高速道路乗ってるときの会話が自分もこんなこと考えてたなあとか思い出して。

よつばとはふとしたときに風景写真の視点になる。そのときに物語と少し引き離されて、物語に自分の記憶(具体的でなく感覚的な)が入る隙が生まれる。明確な時代設定があるわけでなし、固有名詞が沢山出てくるわけでもないのにこんなにも懐かしさがわき立つのは、エピソードや台詞、こうした画の良さが、それこそ「奇跡」のようなバランスで組み合わされているからなのだと思う。よつばとを読むと、ただただ漫画ってすごいなという気持ちになる。

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