自分勝手に世界は付き合ってくれない

実際に預ける時間と同じ時刻に保育園へ行く。1か月前は6時起きなんて不可能ではと思っていたけれど、案外平気な自分がいる。子どもを預けて家に帰ったら寝てしまおうかと思ったけれど、保育園から家のあいだを歩いているうちにだんだん目がしゃっきりしてくる。子どものおかげで自分も朝ごはんを食べるようになったから、お腹にご飯がたまって、太陽の光を浴びて、エネルギーがわいてきているのだと思う。植物と同じだと思う。生き物のつくりはシンプルだ。

帰ってアンソロの続きをする。話を入れ替え入れ替え、雑ではあるが最後まで書き、なんとか流れができたと思う。あらすじを作った時点で流れはできているはずなのに、なぜつじつまが合わなくなるのか、いつも疑問。この雑な第一稿も、書き込んでいるうちにつじつまが合わなくなってくるかもしれないと思うと恐ろしい。けれども進めなくてはいけない。

子どもを迎えに行く。今日も給食をすべておかわりしたらしい。沢山身体を動かして、食べて、寝てというのが基本方針らしく、指導も家庭的。おもちゃはほとんど手づくりだし、なにより同じ部屋の中にキッチンがあって栄養士さんが料理を作っているのが見えるのがいい。自分の実家に預けているような感じだ。

このあたりは余裕のある家庭が多く子どもも多いので、子どもに関するいろんなものが豊富に揃っている。それは塾や音楽教室やプログラミング教室などの習い事だったり、身体にいい食べ物飲み物、肌につけるものや洋服だったり、とにかく子どもにお金をかけようと思えばいくらでもかけることができる。保育園自体、英語教育や運動教室などが元々組み込まれているところもたくさんある。一方、自分はそういうものが一切ない山と川と畑だけがある場所で育った。なのでそういうものがあってもなくても、たくさん遊んで食べて寝たらきちんと成長できることは知っているつもりだけれども、つい手を伸ばしたくもなる。

そんなとき園の教育方針は自分を元の位置に戻してくれる。もちろんそういうものに触れること自体がだめなのではなくて、金銭的余裕があって、ほんとうに必要と思ったものには手を伸ばしたらいいと思う。けれどもそれを選ぶ基準は、私の場合、結構周りに流されてしまう。この園でなかったら、この土地のこの雰囲気に流されて本当に(自分にとって)いいのかどうか分からない「ほんとうにいいもの」に手を伸ばし続けてしまっていたかもしれない。

帰りにフランス料理店の簡易販売所でチーズケーキと焼き菓子を買う。どれもコンビニスイーツよりも安い価格で得した気分になる。せせこましいと言われようが、こういうやり方をこれからもしていく。

帰り道、中学生、高校生、いろんな新入生をみた。ふわふわとして、たくましい彼や彼女たちを見ていると、子どもがこんな風にすべてを預けてくるのは今だけなのだと思った。そう思うとずっと一緒に居たくなる。今までの時間を取り戻したくなる。一方で、一人になりたいと思うときもある。こんな自分勝手に世界は付き合ってくれないと思った。

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