当事者意識

フォロワーさんが引用されていた氷室冴子氏『いっぱしの女』の一文が深く刺さる。

同じ括りだからと決めてかかり、差異に鈍感になってはいないかと自分自身を顧みる。


言葉遣いの巧みさ(というか言葉だけでなくすべてにおいて)というのは、「そうできるのにしない」ことだと思う。この言葉に対する感度の鋭さをもって「他人を自分の思い込みで断定し、決めつけ、相手を息苦しくさせる」者をあぶりだし切りつけることもできるのに、あえてそれを選ばずして、読者に自戒を促す(本人にその気はないだろうけれど)ところに、氏の周囲に対する誠実な姿勢や言葉に対する敬意が感じられる。文章を書くとかそれ以前に、人間的にいつか到達したい地点だと思う。私はまだまだ、言葉を自意識や憎しみのために使ってしまうことがある。結局苦しむのは自分だと分かっているはずなのに。そこから自由になりたい。

『いっぱしの女』は7月に文庫本がでるらしいので買おうと思う。perfumeのライブに加え楽しみが一つ増えた。


そうした当事者意識がもたらす弊害について最近ときどき考える。以下のツイートは昨今のSNSの雰囲気を的確に表していると思った。

「当事者だから」という前提がそれ以外の立場の意見を簡単に黙らせてしまう。当事者でない場合は、その項目について詳しくないと発言してはいけないという雰囲気もある。それが息苦しい。そんなことを気にせずに言葉にしてしまえばよいのだろうけれど、プライドが邪魔をする。けれどもこれを経ないと先に言っていた地点へは行けないだろうと思う。言って跳ね返ってくることで自身の意見が確認できるというのもある。

女だから、主婦だから、母親だからというありとあらゆる決めつけに対して抗っていくことが自身の姿勢だけれど、女、主婦、母親という枠があるのは確かで、自身がそうすることで枠内の他の誰かを傷つけていないだろうか、そうした枠に所属していることを特権的に使用していないだろうか。そのことをずっと頭に置いておこうと思った。

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