小説について

朝井リョウさんの『スター』を読みはじめる。ツイッターにも書いたけれど、都市と地方それぞれで育った人間の生活実感と思考とものづくりに対する姿勢の相関が一個人レベルまで丁寧に落とし込まれてて序盤から引き込まれる。特に以下の文章が良かった。


上京して初めて、自分が暮らしていた場所は「一部地域を除く」の一部地域であったことを明確に自覚した。ただ、四月の終わりになっても桜がどうこうのと歌っている曲を堂々と流すテレビ番組を見ていると、そのころには桜なんてとっくに散り切っているこの島は全国に掛けられている網目から零れ落ちていて当然、というような気持ちにもなる。


ツイッターで繰り返し話題になることから分かるように「地方と都市」というテーマは自分語りと相性がいいというか、個人的な感情を排して語ることが難しいと思っていて。そんな個人的な感情や感傷が入らざるを得ない事項をこんな風にそつなく表現することができるのだなと驚く。同時に感情的・感傷的に書かなくとも読み手は心を動かされるのだということにあらためて気づかされる。エモい(これももう死語なのだろうかと恐れながら書いている)の対極にあって「分かる……!」を喚起する文章。


私は物語中で一般化が行われているのを見ると悲しくなる。昔流行った「A型の取り扱い説明書」みたいな、あれそのものはいいとして、それと同じことが小説で行われていると本当に悲しくなる。そうした、個人を一般化することから逃れられる場所が物語なのに、どうしてその先でもそんな思いをしないといけないのだという気持ちになる。

朝井さんが作中で行っていることは、一歩間違えれば「都市の人間はこう、田舎の人間はこう」という一般化になってしまうけれど、そうなっていない、というかむしろその逆をいっていてこれはどういうことなのかなと考えている。人間そのものに対する興味というか、愛の深さなのかなと曖昧なことを思う。


そういえば分かるで思い出したけれど、「共感がすべての指標になることは良くない」が始まりだったのだろうが、それが共感そのものが良くないみたいになってきている感じがする。「共感」と「分かりやすさ」が接近して両単語のイメージがマイナスに傾いてきている感じ。私は物語の中に、自分が想像もしていない表現で、自分の気持ちが描いてあることに救われてきたので、そういう向きを見ると息苦しく感じてしまう。

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