三宅香帆『それを読むたび思い出す』

三宅香帆さんの『それを読むたび思い出す』読了。

以下の文章を読んで、自分が現在の世界情勢について言葉を発信できないでいる理由が少しだけ分かった気がした。


自分の意見を言葉で発信することに、「社会がこう変わってほしい」という願いを込めないことなんて、無理だ。だってどうしたって言葉は社会の中にある。だけどそれでも躊躇してしまう。自分の言葉は軽い。言葉は浅はかで、後ろめたくて、軽い。でも言葉を使わずにはいられない。社会と言葉のあまりの距離に近さに、私は今もどうしていいか分からなくなる。P165


少しでもはみだしたら終わりだと思っていた中高時代、方言が飛び交っていた寮、高知弁で寝言を言っていた後輩、「ノーベル賞とるから」とすでに確定した予定のように話していた京大の先輩、抽象的で観念的な言葉の熱に浮かされていた学生時代。

人からすれば単なるあるある話かもしれないが、どれもが自分にとってかけがえのないもので、それは誰もがそうで、そんなそれぞれの持つ思い出を呼び起こすようなエッセイだった。


自分でもよく分からない気持ちや、脳内では鮮やかなのに言葉にできない思い出が言葉になってそこにある。確かにあったのに薄れていく霧のような思い出もこれを読んだら思い出す。


これを読み終えたとき、考えたのは共感という言葉についてだった。

人はそれぞれ別々の人生送りそれぞれに孤独を抱えているけれども、底の方には同じようなものがあるのではないか。そして本を読んだり音楽を聴くことで、それを知ることができると私は思っている(ほかにももっと色々な方法があるけれども、私はそれを主な手段としている)。私が日記をネット上で書いたり、小説を書いている理由もそれだ。

本書ではこのことが以下のように述べられている。


人は孤独だと言いつつも、ちゃんと自分に届く言葉があるのなら、それは孤独ではないということですよね。つまり本を通して孤独な星同士がつながれば、それは本質的には孤独ではないわけです。P192


私は誰かの(そして自分の)孤独を知ることが、「共感」という字面だけで捉えられ、浅いとかダサいとか言われることがすごく嫌だ。

もちろん本を読む楽しみは孤独を知ることだけではないし、違いや分からなさを楽しむことと共感することは矛盾しないと思っている。けれども書物の中に自分を見つけるという根源的な行為が「共感とかダサい」みたいな一時の風潮で否定されているのをみると悲しくなる。

はっきりとそういう風潮にはノーと言おうと思うきっかけになった一冊だった。

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