フェミニズムについての覚え書き

朝から散歩。雨上がりだったからいろんな虫がいた。子どもは「あっ」と言ってアリを見つめ指差して私に知らせ、片方の足でアリを踏み潰している。人というのは生きているだけで傲慢なのだと思う。


嵯峨さんの『氷室冴子とその時代』を読んでいる。氷室さんの、フェミニズムとの距離の取り方に共感する。氷室さんは「私はフェミニズムを原則的に支持しています」としながらも上野千鶴子氏に対し

上野さんはプロデューサー的な発想で物事をやっておられますね。私はたとえ少女小説というジャンルであろうとも、やっぱり物書きですから、つまり表現者ですわね。だからある種の、あのプロデューサー的な発言というのは、非常にカンにさわるんです。そこには個人的な共感性とか、個別な個人の感受性を無視した効果とか効率とかを第一目的に持ってくる発想があるわけです。そういうベクトルで動くのはまさにフェミニストが批判している男社会のやり方ですよね

と述べる。

およそ30年前の文章にもかかわらず、「個人的な共感性とか、個別な個人の感受性」に重点を置く氷室さんの考え方が自分にはとてもしっくりくる。そしていつか観た宮崎駿氏のドキュメンタリーを思い出した。

そのドキュメンタリーの中で宮崎氏は、とあるゲーム会社からアニメーションにおいて多くの人々の動きを自動的に描写できるシステムのプレゼンを受ける。それに対して宮崎氏は怒りを表し、近所に住む障がいを持つ青年のことを話しはじめた。それを観たときは突飛に思えたけれども、今はこういうことなのだろうと納得している。

社会で取り残される一人、人ひとりひとりの中にある手に負えない一欠片、そういった複雑でねじ曲がり簡単には言い表せないものを掬い、繋ぐのが物語だということ。その前提がある表現者の創作物が私は好きだ。


「価値観をアップデートする」という言葉があるけれど、新しいものこそ最良という考えに基づいているように聞こえるためあまり使わないようにしている(使う機会もないし)。日々新しい論は展開されているけれどそれが自身にとって最良だとは限らない。新しいもの古いもの問わず、自分にしっくりくるものを選びたいし、しっくりこなくても切実な声には耳を傾けていたい。

そしてその考えを受け入れる基準というのは、その言葉を聞いて、自分が自由を感じられるかどうかなのだと思う。自由というのは、持ち物がなくなったり、何かから解放されることではなく、自分の意思で選べることだと思っている。誰かからの勝手なレッテル貼りから逃れ、のびのびと、明るい心持ちで様々な選択ができるということだ。

昼からは自由港書店さんを訪れる。自分の書いたものについて直接口頭で感想をいただくというのははじめての経験で、こんなにも嬉しく恥ずかしいものだとは思わなかった。自分を規定していた枠が吹き飛ぶのを感じる。今日マチ子さんの『Distance』、るるるるんさんのzineを買って帰宅。

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